創作田園地帯

音楽は世界共通語か

言葉には様々な種類の言語があり、 知らない言語との会話は理解できない。 しかし一方で音楽が「世界共通語」であるという誤った認識が従来よりある。 ここで音楽の言語性と方言性について考えてみたい。

音楽の多様性

そもそも音楽とは何を指して呼ぶのであろうか。

音を通じて聴覚に訴えるものであるとしても、 でたらめに音が鳴っているだけでは音楽とはいわないし、 話し言葉のようなものも普通は音楽には含めない。 音楽を完璧に定義しようとすれば、 それだけで一冊の本が書けてしまいそうだからここでは割愛するが、 一つ気付くのが一般に音楽と呼ばれているものにはすさまじい種類のものがあり、 その多様性には驚くべきものがあるということだ。

誰が作ったという訳でもない民謡、童謡、われべうたの類は世界各国にある。 ベートーベンなどの西洋音楽もあれば、 シンセサイザーなどを駆使した現代音楽など、 これらは全て音楽の範疇の中にある。

音楽の基本的な三要素として、旋律・和音・拍子が挙げられることがある。 しかし或楽曲は殆ど旋律を持たず、リズムのゆらぎが重要であったり、 また或楽曲では旋律と旋律の動きこそが聴衆の関心であったりする。 楽曲の目標とする所や聴衆の関心とする所によって、 音楽の性質はがらりと変わったものになる。 旋律の美しさ、全体の雰囲気、迫力、奇抜な拍子、新たな音色など、 音楽の持つ可能性は無限である。

音楽の言語性

初めてモーツアルトを聴いたトルコ人は、 こんな子供だましが音楽なのか、といって笑ったそうだ。 或いは三度累積和音に慣れた西洋音楽家が東洋の音楽を分析した際、 思うような結論にいたらずに、 東洋の音楽には和音がない、 などという誤った結論を導いたりした。

このようなことが起こるのは、音楽に言語性があるからである。 つまり西洋音楽と東洋音楽とでは「言語」が異なるのである。

音楽の言語性とはどのようなものか。 それには様々な要素がからんでくるが、 例えば音階をとってみても、世界には様々な音階が存在する。 五音音階、七音音階などをはじめ、四半音の差を区別する音楽や、 十二音階に基づかない音階もある。 反対に半音程度の上下は音楽的に大した意味を持たず、 それよりは発音の際の呼吸法や演奏法にこそ意味を持つ音楽もある。 西洋の音階に慣れた耳では、異質な音階を簡単には理解できるはずもない。

音階だけでも色々な種類がある。 音階からフレーズを作るさいのイディオムや文法も加えると、 更に複雑な言語性が見いだされる。 音階の他にもリズムや和音の仕組みも言語性を有している。 音楽の言語性は以上のような多面的な要素が織りなす音の文章である。

自然言語と音楽

音楽と自然言語とは非常に似た性質を持っている。 ちょっと極論になるが、音楽の言語性と自然言語との関連について論じたい。

音楽には言葉と似た性質があり、 例えば文章には始まりがあって終わりがあるように、 楽曲にも始まりと終わりがある。 一方でいつまでも続く会話のように、 終わろうと意図するまで永遠に続けていくこともできる。

そもそも言葉には本来から音楽的な要素を持っている。 例えば私の住む所では「はし」という言葉でも、 「は」を高く発音すれば橋の意になり、 「し」を高く発音すれば箸の意になる。 音の高低によって同音異義語を区別するのは日本語の特徴ともいえる。 英語などでは音の高低は問題ではなく、 音の強弱によってアクセントをつける。 これらはいずれも言葉が持つ音楽的要素である。

他にも早口で話すときとゆっくり話すときの印象の違い、 大きな声と小さな声、甲高い叫びと低い話し方、 これらは皆、音楽と共通性のある言語性といえる。

また同じ日本語であっても地方によって方言の差があるし、 仲間内だけのイディオムや言い回しなどがある。 こういった独自の表現を行うものに、詩とよばれる言語表現がある。 例えば(しょうもない例で申し訳ないが)、

真夏の夜の天の川
あなたとともに
星が降る

詩中に「星が降る」という表現があるが、 当然ながら星が実際に降ってくることはない。 「星が降る」というイディオムは、作者が意図的に行った表現である。 上の詩は日本語で書かれたものだが、 「星が降る」という新たなイディオムの導入により、 新鮮な雰囲気を表出させているのである。 換言すれば日本語に新たな方言を導入したということである。 もっとも「星が降る」という書き方が慣用的になると、 もはや方言ではなく立派な日本語になる訳だ。

音楽の方言性

同じ西洋の音楽であっても、 ベートーベンばかり聴いていて初めてバッハを聴いたときは、 全く違う音楽のような印象を受ける。 同じ作曲家であっても初めて聴く曲には、 なんだかよく分からないという印象を持つ。 何度も聴いている内に、その曲の良さや悪さが理解できるようになる。 最初に聴いたときの、よく分からないという印象は、 音楽の持つ方言性によるものだと考えられる。

音楽の方言性とは? これは詩が持っている方言性と同様である。 その作曲家だけの文法、その曲の独自のイディオム、 これらが最初の鑑賞の際には正しく理解できないのである。 詩の場合は分からない所を読み返す事もできるが、 音楽の場合はそうはいかない。 聴者の希望とは無関係に曲は勝手に進んでいく。 もちろん作曲家は同じパッセージを繰り返すなどして、 独自のイディオムを理解しやすくしているだろうが。

音楽が方言性を持っているならば、 同じ音楽言語、例えば伝統的な西洋音楽であっても、 独自の方言を作り出すことにより、 全く新しい結論を導き出すことも可能である。 これは同じ日本語からでも無限の文学作品を生み出せることと一緒である。

同じジャンルからでも方言性によって全く新しい曲が作られる。 あらたなジャンルの創出、新規の言語の獲得によっても、 全く新しい革命的ともいえる曲が作られる。 とすれば音楽が持つ表現の可能性は無限である。

結尾

音楽が一つの言語で成り立っている(つまり世界共通語である)という誤った認識は、 音楽の持つ限りない可能性を見逃すことになるだろう。 つまり音楽は民族的であり、 人の数だけ音楽があるのだ。


制作/創作田園地帯  2000/09/22初出
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