創作田園地帯

見えない音楽を感じながら

音楽は目に見えない。 だけど感じることはできる。 でも感じる以上のことはできない。

音楽は時間と共に消えていき、 そして洪水のように次から次へと押し寄せてくるのだから。

視覚化

視覚化は人間が思考するための重要な手段であり、 理論化や記述化するには欠くことが出来ない。 例えば文字は音声言語を視覚化したものである。 まず口語があって、その従属として文字が派生したはず、 しかし実は音声よりも視覚情報の方が正確かつ速読でき、 というのも我々は音読するよりも黙読する方が理解が速い。 文法というような法則性は視覚化の成果といっても良いだろう。 文字に限らず映像も数値も、結局は視覚化して認識している。 もちろん視覚化されていないイメージもあるだろうし、 ぼんやりとした感情によって行動を決定することもあるだろうが、 いわゆる理性的な活動、 深く考える、的確に認識するためには視覚化が用件となる。

視覚化には既に物事の分析という事象が含まれていて、 例えば日本語では「私は」を発音通りに「わたしわ」とは書かない。 この時点で「わ」という同一音声に対して意味付けが加えられているのである。 このように書き分けられた文字を見た時、つまり視覚化された時、 直感的に文法の存在を感じられるのである。

だが視覚化すること、言い換えれば分析結果というのは、 元のデータから不要な物を削除しているのである。 こうやって本質を取り出す作業こそが分析なのであり、 同時に価値を高めているとも考えられる。

けれども時として必要なデータさえ抜けてしまう危険性がつきまとう。 「雨」という言葉、 口語であれば微妙な言い回しによって様々なニュアンスが伝えられる。 雨のうっとうしさであったり、寂しさであったり、或いは疑問文であったり、 この一つの言葉が実に多様で多くの感情を伝えるに驚きを禁じ得ない。 だけど感情は文字にすると消えてしまう。 「雨?」とか「雨!」とか「雨……」とか、 いかに新たな記号を導入しようとも、 全ての感情を伝えることなど出来るはずもない。 これは情報の欠落である。

見えない音楽と楽譜

視覚化(或いは記号化)は対象の二要素にのみ着目して他の雑音は割愛する。 換言するば情報の二元化であり、これは紙という媒体の特性に寄る所が大きいし、 また人間の視覚の特性でもある。

従って誰もが認識しやすい共通項に着目、他の項は一切省略してしまう。 音楽を視覚化する方法の一つに、複雑な音楽という現象の主要な要素を取り出し、 それを平面に、線形のグラフとして表示することができる。 では音楽における注目すべき要素とは何か、 しかもそれは容易に認識可能でなければならない。

現時点で一般に認められている要素は、音の高さと時間とである。

音高は昔から高い低いという一方向で説明されており、 弦の長さであったり管の長さであったり、 視覚化も古代から知られていた。 現代で在れば音波の周波数のように正確な数値として表すこともできるだろう。

そうして音高が認識されると同時に、 音高の異なる音同士が区別されることになって、 音の持続する時間というのも重要となる。 時間は時計でもあれば正確に具体的に得られる。

こうして音楽から音高と時間という二つの要素が得られた。 線的な二つの要素、つまり二次元データは容易に視覚化できる。 横軸に時間、縦軸に音高をとった平面グラフを書けば良いのである。 そしてこれこそが楽譜に他ならないのである。

かくして我々は楽譜を獲得した! 音楽の視覚化に成功したのである。 その成果として音楽を記録伝達する手段が生まれるだけでなく、 旋律と旋律の分析から和音分類や和声学まで、 様々な理論と方法論が飛び出してくる。 音楽は楽譜によって飛躍的に発展したのである。

楽譜の奥に伸びる次元

楽譜が音楽の全てを表していないのは、 情報を端折って視覚化したのだから当然のことである。 そして音楽の場合、その端折った部分が無視できないほどに大きい。

楽譜にない要素、例えば音色というのは完全に取り去られている。 記述したとしてもピアノで演奏するといった文字情報としてでしかない。 もちろんこれで充分に音色を指定したとはいえない。 ピアノと一言でいってもその音色は多種多様であり、 また奏法や調律いかんでも万華鏡に変化する。 しかも音色というのは時に音楽の中心軸ともなりうるのである。

作曲家は常に音色に無関心であった訳ではない。 それを正確に記述する方法を知らなかっただけである。 「明るく弾むような黄色い音色のピアノ」と比喩的な指定を行ったところで、 解釈は奏者によってまちまちになってしまうだろう。 音高や音長のような客観性のある記号になっていないのである。 音色に関しては作曲家はそれぞれの方策を試みてきた。例えば、

  1. 楽譜で記述可能な音高と音長のみを音楽的要素と見なし、 音色には全く頓着しない。
  2. 音色に関しては不確定な即興的な要素と考え、 演奏者の解釈によるものとする。
  3. 楽器や奏法をきめ細かく指定し、 音色に関しても出来るだけ意図を示そうとした。
  4. 音色が排除されてしまう楽譜という手段を排除し、 録音や直接的な表現によって音楽を行う。

結局はどれも一長一短で問題を解決したとは言えないだろう。 言うまでもないが楽譜に表せないのは音色ばかりではない。 実に多くの要素が死んでしまっているのである。 未知の要素を発見すれば新たな道が開けるかも知れない。 ともかく我々は音楽を楽譜だけで語る時代は通過したのだし、 新たな視覚化の方法も既に未完ながら手に入れてきている。

結尾

感じる音楽から考える音楽へ、 そして再び感じる音楽へ。 理性をなくした感情へ、一つ耳を傾けてみよう。 そこに何か、ないがしろにされてきた大切な物が、 ころがっているかも知れない。


制作/創作田園地帯  2001/07/02初出
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