主体的な情報、自己の心的状態や論述的な意味を、 客観的に捉えうる形象として外面に表出させる事、これが表現である。 従って表現には二つの側面が在る、 表現する物と表現された物とだ。
客観的に知覚されるのは飽く迄も表現された物でしか無い。 それが表現されているという事は、表現の対象が必ず存在しており、 対象は外面から知覚できず、表現者の内面にのみ存在している。 表現するまでも無く外面に表出しておるならば、 そもそも敢えて表現する必要など無い。 換言すれば表現の対象は必ず自己の内面にのみ存在するのである。
故に表現された物と表現する物とは同一で有り得ないと結論できる。 例えば表現したい哀しい感情が有ったとする、 何故に表現したいかと云うと、 感情は内面のみに有って客観的に捉える事が出来ぬからであって、 そこでこれを外面から知覚可能な様に表出させたとする、 これが表現するという行為に外ならぬ。 表現された物は、それが感情を如何に正しく写実的に表していようとも、 内面に有った感情とは別の存在である。
写真はたゞの紙である、現実の世界では無くその中の物に触れる事など出来ない、 しかし現実の風景の有様を表現している。 我々は写真を通じて表現している情報を知ろうとする、 けれど写真は対象とは同一では無い、対象の表現の一例に過ぎない。
作曲の方法を誰かに習おうとすると、 音楽理論という名の規則を覚えろと云われる。 伝統的な和声学では、和声書法に関する規則を、 細々とした禁則と伴に数多く学ばなければならない。 規則は守ってこその規則である、 守らぬぐらいならば学ぶ必要など有るまい。
作曲しようとする者は一般的に音階を用いる。 音楽はあらゆる音を用いうるから、別段音階に基づく必要は無い、 どんな周波数の音も、どんな連続した音高変化も許されている。 なのに自ら戒具を身に纏うのは、わざわざ制限する事によって、 より表現を容易にしようしているのに外ならぬ。 余りの自由に置かれると、拘泥せねばならぬ事象が過剰に増えてしまって、 却って本当に表現したい内容が疎かになってしまう虞が生ずる。 そこで音階という縛りを課すのである。
音楽理論というのは確かに枷である、しかしながら有意な束縛である。 規則には先人の表現者らが体現した表現の方法が凝縮されている、 つまり音楽全体から経験的に望ましい集合を抽出しているのである。 規則は束縛であり道しるべなのだ。
よく切れる見事な包丁が在ったとする。 包丁はそれ自身、その機能が為に有用であって、 よく切れるというのは包丁にとって望ましい性質である。 一方で切るという実用的な側面を取り除いて、 見事な包丁は見ているだけで美しいと思うだろう。 この機能性とは別に生ずる快さが美と呼ばれる性質である。
音楽にも実用的な側面が少なからず在る。 ここで云う実用とは、音楽がそれ自身と他に目的と関係を有している状態であって、 例えばダンスの為の音楽は、音楽それ自身よりも、 ダンスという目的と関連を有しており、この点で実用的であると云える。 実用的な音楽では、聴衆は音楽が表現する対象を汲み取ろうとは考えない、 ただダンスに適していれば良いのである。 実用性を持ちうる点で、 音楽は必ずしも芸術では無い。
芸術とは表現する事で快楽を追求する行為である。 従って芸術に他者は必要とされない、 自己が快楽を追求する限り、 その表現は芸術と云えよう。 こうして表現された形象が、実用性とは別に、快楽を与える時、 この快楽の源泉を美と呼ぶのである。
音楽は必ずしも芸術では無い、 ただし音楽が芸術であるという聴衆の態度が音楽を芸術に、 それどころか芸術以上の怪物に変貌させる。 つまり聴衆が音楽という表現された形象から、 表現している対象を読み取ろうとするならば、 その音がどのような感情を、 どのような意味を表現しているのかを読み取ろうとするならば、 音楽によって表現する対象は、表現者にとっても聴衆にとっても、 共有されていなければならなくなる。 こうなると音楽が単なる芸術を脱し、即ち自己の快楽追求のにならず、 他者にとって美を感じさせねばならぬ存在になる。
ロマン主義とは音楽に対する認識の変化を受けた態度である。 ロマン主義は従来の形式を蔑ろにするでも無く、 その優位性を認めた上で、聴衆に対する美の提示を指向している。
音楽の美を共有しようという態度が、 聴衆という他者を表現者に意識させる。 他者という本来芸術と無関係な要素に束縛される事で、 つまり音楽が芸術であるという態度が、寧ろ音楽を芸術から遠ざけてしまったのだ。
音楽は何かを表現、しなければならない、のか?
ロマン以後に起こった十二音技巧などの前衛音楽は、 ロマン主義に対するアンチテーゼである。 そこにはもう、美に対する指向が無い、 提示される音楽はいっそ不快でさえ聞こえる。 美を否定する事で、他者を否定する事で、音楽は自由を得ようとしたのだ、 何にも束縛されざる、芸術としての音楽、 ただ純粋に快楽を追求する為だけの表現として。
この文章の多くは 大澤真幸[1]から第七章『表現の禁止を経由する表現』に 依拠している。
制作/創作田園地帯
2005/12/18初出
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