創作田園地帯

音楽を聴いて感動する時

音楽を聴くと、時として感動に打ちのめされる。 どうして音楽は感動を呼ぶのだろうか、 音楽のどの部分が感動と相関しているのだろうか。 必ずしも美しい音楽だけが感動を呼ぶのではなく、 必ずしも楽しい音楽だけが感動を呼ぶのでもなく、 様々な交錯する人間的な感情の波に、 我々はただ感動という言葉を発するしかないのである。

音楽を聴いて感動する時とは、例えば次のような要素に基づくのだろう:

  1. 曲に付随する思い出
  2. 音楽の幾何学的な美しさ
  3. 音楽の職人芸の見事さ
  4. 作曲家の精神の受動

曲に付随する思い出

これは本来的には音楽が直接に作用した結果ではなく、 寧ろ音楽の記号としての役割によって果たされる。 つまり曲に付随した個人的な体験、思い出、象徴的な出来事が、 音楽を背景として蘇ってくるのである。 この機能は殊に音楽である必然はなく、 即ち思い出の品を眺めることと同義なのだ。

この意味においては、音楽は何も音楽的に優れている必要が全くない。 音楽は単なる過去への記号としての役割しか担わない。 幼少時代の思い出であれば、「音痴」な方がかえって感情を高ぶらせるかも知れない。 もちろん音楽的な感動との相乗効果により、更に強い感動を生むこともあるだろう。 音楽を通した追体験が、 再び一つの体験となって楽曲に対する強い印象を残すことになる。

付随する思い出が果たす役割というのは須らく大きいと考えるべきである。 他の何よりも実のところ強力かも知れない。 であるから我々はしばしば音楽の感想に経験談を交えてしまう。 ただしこの種の感動は各個人に寄って異なるのが明白であるから、 他人と共有できることは稀である。 あなたにとって思い出深い筆入れであっても、 私にとっては只の安物でしかないように、 いくら口で説明されても価値を理解することは出来ない。

音楽の幾何学的な美しさ

美しい音楽を聴けば感動する。 けれどそもそも美とは何であろうか。 美とは精神的な快をもたらす物である、 では快をもたらす物とは何かと問われるだろう。 この問いに対する答えはこうなる。 即ち快とは美によって得られる精神的満足であると。 古今、美とは何か、様々な定義が為されて来たが、 しかし最終的には言葉の循環に陥ってしまいがちなのだ。

我々は幾何学的な図形に対して一つの美しさを認めるだろう。 例えば完全な球を目にしたならば神聖な感動を得るだろう、 理想的な形が現在した時、 心の中にあったイデアを目の当たりにした時、 天から授けられたかのような美しさを感じるだろう、 敬虔な感動を受けるだろう。

こういった美しさは音楽にも見られる。 単純な旋律に平坦な律動、規則的な繰り返し、 ややもすると冗長な退屈さに繋がるが、 そこには純粋な音楽的な感動が待っている。 音楽は一定していながら精神は高揚して静かな感動に襲われるのである。 圧倒的な音楽美の前に、 我々は音楽の中に悦びを見付け、 そして感謝に似た精神的な充足を得るのである。

音楽の職人芸の見事さ

巧みな技、丁寧な仕事、人間技とは思えぬ術に、 我々は感動するだろう。 それは感銘や賞賛といった感情に起因する。 フーガの複雑にして巧みな展開、 或いは自然の音の完全な模倣、 そういった名人芸は一つの感動を呼ぶのである。

これは音楽的な美しさとは無縁の概念だ。 音楽的に良かろうと悪かろうと、 超人的な演奏を目にすれば思わず拍手を送る。 一つは人間の持つポテンシャルへの感動であり、 人間優位への安心であり、 その場に居合わせた時間の共有である。

技術は音楽家の一つの指標とされ、 また技巧を手中にすれば人を感動させるのが容易な方法でもある。 それでしばしば音楽家は安易に音楽を技術面のみで作り上げてしまう嫌いがある。 確かに非難すべきことかどうかさえ疑わしいけれど、 ただ人々が感動しているからといって音楽的な完成を達している、 などという勘違いをしないように注意する必要がある。

作曲家の精神の受動

芸術(art)という言葉がある。 意味が移ろいやすく曖昧な言葉であるが、 近代以降、有価と同義で使われる傾向がある。 芸術家(artist)という言葉もある。 芸術の価値の有無の議論はさておき、 自らを芸術家と自覚した者の作品は、 つまりそこの自身の芸術的価値と信ずる所の物を塗り込んでいるはずである。

作曲家の意思、 それは純粋な創作意欲であれば恋愛の苦悩であるかも知れないが、 楽曲の作曲家の意思をくみ取る時、 我々は意思を追認して感動することになる。 音符に込められた思いは様々である。 例えばバッハは自身の名前の音列 B-A-C-H をたびたび用いた。 それが名前に由来しようとそうでなかろうと、 聴覚上の理解は変わらないはずである。 しかしながらこの事実を知れば、 その音符に作曲家の意思を感ずるのである、 その音列にバッハの魂を感ずるのである。

作曲家が亡霊となって音楽を支配する時、 我々は作曲家の思い出を我が物の如くに認識する。 そして見もしない情景を前にして感動を見るのである。

結尾

音楽を聴いて感動する時、 それは音楽に一歩近づいた時である。

音楽を聴いて感動する時、 それは音楽家に一歩近づいた時である。

心の中の音楽が響き出せば、 ここに感動がやって来る。 それが音楽というものだから。


制作/創作田園地帯  2002/07/27初出
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