創作田園地帯

音楽理論とは何か

音楽理論とは如何にとらえるべき存在なのであろうか。 本稿では私なりに音楽理論というものを定義してみたい。 更に一歩進めて作曲とは何かについても言及するつもりである。

定義

まず音楽作品全体を集合で表し、これを集合Mとしよう。 集合Mの要素は即ち音楽作品、楽曲、または単に音楽などと呼ばれる。 集合Mには既知の作品も未知の作品も含み、 また楽曲の質に関しては問わない。 よほど音楽と呼ばれる物全てを指している。 集合Mの要素は非常に多いか、もしくは無限であるが、 今のところ厳密には考えない。 とりあえず集合Mは有限集合だとしよう。

この時、音楽組織音楽理論を 次のように定義する。

音楽組織
集合Mの部分集合Sが S={x|P(x)} を満たす時、 P(x) を集合Sの音楽組織とする。
音楽理論
音楽理論とは音楽組織 P(x) に必要な条件である。

音楽理論が音楽組織の必要条件であって十分条件ではない事に注意されたい。

平たく言えば、音楽全体の中から特定の音楽ジャンルを選び出すとすると、 選び出す際に我々が手がかりにする選考基準があるはずであり、 この選考基準の一部を取り出した物が音楽理論なのである。 即ち音楽理論とは特定の音楽作品に共通に見られる特徴を取り出し、 その中から特に重要な物を選び、 これを体系的に並べた物である。 普通に音楽理論と言うと明文化された物を想像しがちになるが、 上の定義では明文化されたかどうかは問題ではない。 そこで音楽理論の中でも明文化された物を区別して指す場合には、 音楽理論書か或いは単に理論書と呼ぶ事とする。

以上が私なりの見解であるが、 「新音楽辞典 楽語」[1]では音楽理論を次のように説明している。

音楽を構成する諸要素の経験的・実践的認識を理論的に組織したもの。 内容としては音楽通論、リズム論、和声学、対位法、管弦楽法、音楽形式論、 ソルフェージュ、音声学などを含む。

この説明では音楽をより狭義で使っているように思われる。 例えば和声学が持つ「連続五度は不良」のような法則は、 確かに特定の音楽組織には当てはまるが、 音楽全体に通じるような法則とはいえない。 つまり上の説明における音楽は私が音楽組織と定義する物であると考えられる。

次に音楽様式という語を次のように定義する。 この定義は一般の音楽様式よりも狭い意味で捉えている。

音楽様式
音楽理論 P'(x) が音楽組織 P(x) の必要十分条件である時、 音楽組織 P(x) を音楽理論 P'(x) の音楽様式とする。

音楽様式は音楽理論によって十分に規定されている音楽組織を表す。 例えば和声学に厳密に従った楽曲を作った場合、 この楽曲は和声学という音楽様式に従っているといえる。

定理

音楽理論が楽曲の良し悪しを述べているといると考えられがちであるところ、 音楽理論の定義に従って、この誤解を正したいと思う。

音楽理論の定義には楽曲の質に関する項目は登場しない。 よって音楽理論(の法則)は楽曲の良し悪しとは全く無縁である。 つまり音楽理論は音楽作品の良し悪しを決定しないのである。

しかし次のような反論を言うかも知れない。 けだし和声学には「連続五度が不良である」のような規則が書かれているが、 これは上で言うところの良し悪しを述べているのではないのか。 けれどもこれは音楽作品の良し悪しを決定するものではない。 和声学の連続五度禁止は単に連続五度を行えば その曲が和声学という音楽様式から外れてしまうことを示唆するに過ぎない。 つまり和声学が対象にする音楽組織であれば 連続五度は認められないかも知れないが、 音楽一般としては全然そのようなことは無いのである。 連続五度に関しては属啓成[2]を引用しておく。

例えば第10世紀の頃、 多声音楽が発祥するそもそもの初期時代における五度や四度のオルガヌムも、 五度又は四度の連続を認めた音楽であるが、 今日でもノルウェーやイタリアの一部地方の民謡は 連続五度をもって歌われているのである。

モーツァルトがイタリアを旅行した際、 連続五度の民謡をきいて 「当地では五度の連続をもって歌います。 しかしその響きは、まんざら悪くはありません」と報じた。

そしてモーツァルト五度など古典的な和声学にも登場する連続五度について述べた後、

ところが20世紀を越えた今日の音楽では、 禁じられていた連続五度もその特色とする音色の自己目的のために、 音そのものの美感を対象として使用されるにいたった。 五度の連続は、もちろん増七度や減八度連続のような不快な響きを有するものでなく、 そして過去の時代や、一部の民族音楽にも五度唱法もあったのだから、 他の不協和音程の連続とは、本質を異にするものである。

確かに伝統的な和声学やバッハ様式の対位法(器楽的ポリフォニー)においては 連続五度は忌むべき物であったかも知れないが、 それは単にその理論の示す音楽様式ではなくなってしまうからである。 理論の拡張や例外の付加は要するに音楽様式を拡大している事に他ならない。 音楽的な良し悪しとは本質的に異なっている。 不快とされた増七度や減七度の連続さえも十二音音階では使用されることがある。 エドモン・コステール[3]の自然親和性もこれを認める音楽理論である。 (自然親和性については 拙稿『自然親和性と和音』を見られたい)

理論は良し悪しを述べない。 ただし良い音楽という集合を考え、 この音楽組織に対する音楽理論を組み立てれば、 それは音楽の良し悪しを決定する物差しになるだろう。 しかしながら私は今まで良い音楽に対する音楽理論を見たことがない。 もちろん「良い音楽の作り方」とか 「良い音楽とは何か」といったような書物は存在するだろうが、 これらは単にその著者が主観的に良い音楽というのを設定し、 主観的な良し悪し対して理論を展開しているに過ぎない。 つまり良い音楽を一般的に定義してはいないのである。 そもそも良いか悪いかは感性や個性などに関わる問題であって、 一般に定義できる部分は本当に小さい。

以上、音楽理論が音楽作品の良し悪しを規定している訳ではないことを述べた。 これは音楽理解に対する警句である。

我々は初めて耳にする楽曲に対して、 これを既知の音楽様式として批評してしまいがちである。 これに関して内藤孝敏[4]は明治時代にやってきた西洋人の言葉を引用している。

東京大学の生物学教授モース(大森貝塚の発見者)は、 その著書『日本その日その日』(石川欣一訳)の中で、 日本人の日常は人目につきにくいところまで芸術的に洗練されていること、 しかしその一方で、音楽はまことに理解し難く、 殊に、船頭の「奇妙な歌」や建築労働者の「不気味な歌」は頭を抱えるほどで、 「外国人の立場からいうと、 この国民は所謂『音楽に対する耳』を持っていないらしい。 彼等の音楽は最も粗雑なもののように思われる」と書いている。

また、東京大学で比較言語学を教えていたチェンバレン(英国の言語学者)は、 「もしミューズィックという美しい言葉を、 東洋人が楽器をギーギー鳴らしたり、 声をキーキー張り上げることまで意味するほど 低下させて用いなければならぬとするならば、 日本には神話時代から音楽が存在したと考えても良い」 (『日本事物誌』高梨健吉訳) と失礼極まりない発言をしている。

ここまで極端でなくても、 我々は次のような批評を行いがちである。 即ち、これは正規の解決運動をしていないとか、 拍子運動が不明確であるとか、 不協和に過ぎて趣味が悪い、等々。 いずれも時として的外れの批評になるだろう。 何故ならその曲が別の音楽様式に従っている可能性があるからである。

ともすれば我々は良い悪いという言葉を好き嫌いという意味で使用しがちである。

帰納と演繹

音楽様式の概念は非常に示唆に富んでいる。 ここで音楽様式という考え方を音楽の認識に関して拡張してみよう。

例えばあなたが機能和声について深く学び、そして完全に身につけたとしよう。 つまり機能和声の音楽理論を知った訳だ。 音楽理論を知るとは即ちその音楽様式を知ったということである。 更に異なった音楽理論を学べば、新たな音楽様式を知ることができる。 また特定の楽曲を繰り返して鑑賞すれば、これも音楽様式の体得に繋がりうる。 ともかくこうして複数の音楽様式を合わせると、 より広範な音楽様式が誕生する。 言い換えればその人だけが持っている音楽様式となるのである。 そして我々は音楽様式に従い音楽を理解し、そして音楽を批評し、 時として作曲に活用するのである。

もしも世界中の人が和声学という単一の音楽様式しか知らなかったらどうだろうか。 そしてその和声学で連続五度が禁じられていればどうだろうか。 連続五度を使用した曲など受け入れられないではないか。 これは半分当たっているし、半分外れている。 確かに最初に聞いたときは誰もが不快感を示すだろう。 だが何度も聞いている内にその音楽様式を知り、 やがて連続五度を受け入れうる状態にまで変化することがあるのである。 これを音楽様式の帰納と呼ぶことにする。 つまり経験によって音楽理論を導き出すことがあり、 これは作曲行為と重要な関わりを持っている。

音楽様式の帰納、換言すれば経験による音楽理論の導出は、 本当に可能なのであろうか。 この問いは愚問である。 何故なら我々は既に多くの音楽理論を知っているではないか。 明文化された理論書をいくつも目にするではないか。 こういった音楽理論はもちろん先人の音楽理論に学んだ物もあるだろうが、 行き着くところは音楽的な経験に端を発する音楽様式の帰納に他ならない。

そもそも人の音楽理解にとって音楽様式こそが全てである。 知っている音楽様式のみがその個人に音楽と認められるのである。 未知の音の羅列は音楽として聴く耳を持っていない。

極端に言えば先天的に耳が聞こえず、 そして全く音楽的な経験を与えられなければ、 その人は一つの音楽様式も持っていないことになる。 このような者にとって音楽と呼べる物は皆無である。 目の前で如何に感動的な曲を演奏されようと、 それを音楽としてすら認識できない。

では全く新規の音楽様式を作り出せるのであろうか。 我々は音楽様式を案出しうるのか。 答えは真である。 ただしそれは偶然性によるものでしかない。 例えばピアノを弾いていた時、 弾き誤ったために新規の音楽的な表情を見せる事がある。 これを繰り返し奏していれば新たな音楽様式を帰納させることになるだろう。

しかしながら偶然以外の方法は余り見あたらない。 或理論書に「解決しない付加九度(テンション・コード)」に ついてのみ述べられていたとしよう。 そしてそこから「解決しない付加十一度」を案出したとしても、 これは新たな音楽様式の案出とまではいえないと思う。 確かに元の理論書には述べられていなかったかも知れないが、 この理論書は和音に解決不要の付加音を足す事を 付加九度で持って明文化しているに過ぎない。 要するに理論書から音楽様式を帰納して、そして演繹しているのである。

音楽様式の帰納の可能性は理論書を読むことでも当然起こりうるし、 特定の様式に沿った楽曲を鑑賞すること、 前述のピアノの誤演奏、 更には周囲に散在する音などによっても帰納できる。 周囲に散在する音とは鳥や川のせせらぎのように自然の音もあれば、 自動車の排気音や電車の振動音など一般に騒音も含み、 それぞれが独自の音楽様式に従っている可能性がある。 このような自然の音は既に多くの人々が耳にしている訳であるから、 つまり既にその音楽様式を知っている人が存在するのであるから、 それらの音楽様式を取り入れた楽曲は比較的容易に人々に受け入れられるだろう。

作曲

作曲という行為の二つのキーワードは、 楽曲の新規性と創作性であると思う。 そこでまず新曲作曲を次のように定義する。

新曲
音楽全体の集合Mの内、人Aにとって既知の要素の集合をKとする。 集合Mの要素であって集合Kの要素でないような要素mを人Aが知ったとき、 要素mを人Aにとって新曲であるという。
作曲
人Aが人Aの持つ音楽様式 P(x) を満たす要素mを発見し、 要素mが人Aにとって新曲であるならば、 人Aが要素mを作曲したという。

要するに新曲とはその人にとって未知の曲を指す。 けれども新曲を発見する事が作曲ではない。 全く音楽を知らない赤ん坊、或いはその辺の猫が鍵盤上で暴れたとしよう。 すると一定の音楽を奏でる事がある。 鑑賞に堪えないかも知れないが、 時として偶然にも素晴らしい楽曲になるやも知れぬ。 しかしながらたとい如何に優れた楽曲が生み出されようと、 そしてそれが新曲であろうと、 これは作曲ではない。

作曲とは創作である。 創作とは創作者の意図が含まれなければならない。 作曲家は全くでたらめに音を重ねるのではなく、 一定の感性に従って曲を作っていく。 この一定の感性こそ作曲家の持つ音楽様式に他ならない。 つまるところ 作曲とは既知の音楽様式に従って未知の新曲を発見することである。

新曲という概念に注目されたい。 新曲とはその個人が知っているか知っていないかによるもので、 他の人々がどうであるかには依存しない。 作曲は新曲でなければならないが、 新曲とはその作成者にとっての新曲であって、 それが他の人にとって新曲でなくても良い。 既に知っている曲と同じ曲を発表するというのは盗作に他ならないが、 同じ曲を他の人が作曲していても作曲家が知らないのであれば作曲である。 畢竟すれば同じ曲を作曲するということもままあり得るのであって、 二つの作品の同一性のみを指して片方を盗作とするのは 的外れとしか言いようがない。

一方で作曲される曲は音楽様式によって示される集合に含まれている。 先にも述べたが耳の不自由などで全く音楽様式を持たない者に、 作曲せよというのは無理な注文である。 もちろんこの者にピアノをいじらせれば何かしらの新曲が生み出される。 だけれどもこれは何らの音楽様式を伴っていないのであるから、 作曲したことにはならない。

結局楽曲を作曲するには音楽理論を知らなければならないということになる。 といっても音楽理論とは何も理論書に書かれたものだけではない。 音楽にふれあうことによって音楽様式の帰納が行われるので、 特別に理論書を読まなくても音楽理論を身につけることが可能なのである。

だからといって理論書が全く無駄かというとそうではない。 先人によって明文化された音楽理論を学ぶことは新たな音楽様式の早期理解に繋がる。 これは自然言語の獲得と類似している。 日本語を母語とする者にとって英語を理解することは容易ではない。 もちろん英語に多く触れれば経験的にその仕組みを帰納させ理解することができるが、 しかしよほど長い時間が必要である。 それよりは先人によって明文化された文法書などで学ぶことが早期理解になる。 故に理論書は新たな音楽様式の獲得する手引き書といえるだろう。

音楽様式をより多く得ることは、より多くの音楽作品を新曲とすることができる。 けれども音楽様式が狭いからと言って 作品が劣っているとか或いは作品が限られているということではない。 ただ一つの限られた音楽様式に精通するだけでも十分に数多くの作品を体現しうる。 例えば伝統的な和声学のみを取り上げても、 この様式に従った新曲はまだまだあるではないか。 文学の世界では俳句や短歌のようにわざと狭い様式を設定し、 その中で優れた作品を発見することに成功しているのである。

前文で俳句を詠むことを発見という述語で表した。 もう一度作曲の定義を見て欲しい。 ここでも発見という述語を用いた。 もちろん作曲は単なる偶然ではなく様式に基づく物であるが、 その様式を満たす集合から一つを取り出してこそ作曲である。 これを強調したいがために発見という述語を用いたのである。

音楽様式を提示すること、つまり音楽理論書を書くことは作曲ではないし、 特定の音楽様式に従う曲を全て列挙するだけでは作曲にはなりえないのである。 俳句でいうならばおよそ俳句になる文は限られている。 日本語の文字はせいぜい百文字もないだろうから、 (字足らずや字余りを除けば) それを十七文字の組み合わせたものはたかだか知れている。 むろん数としては大きいが、 それでもコンピュータの進歩などで 全てを列挙することも可能であると思われる。 だがそれを列挙したところで、 つまりその様式を満たす全ての要素を挙げたところで、 俳句を詠んだことにならない。 そこには何らの創作性、即ち発見がないからである。 俳諧師は限られた様式の中で更に独自の様式を確立し、そして新たな発見を導く。 作曲でいうならば既知の音楽様式の中から演繹的により狭い音楽様式を設定し、 そして新曲を発見するのである。 つまり作曲家は音楽様式を一旦拡大し、その上で音楽様式を制限することで、 意図した新曲へ至る手段とするのである。

これまでに散在した事項から作曲するに当たって顧慮すべき事を取捨し列挙しておく。 加えて作曲家としてどのようなアプローチを取ることが出来るかも述べておく。

  1. 作曲には音楽理論が不可欠である。
  2. 音楽理論は必ずしも理論書に学ばなくても得られるが、 理論書に従うと効率的であるかも知れない。
  3. 新たな楽器を使用することにより新たな音楽様式に出会う機会が増える。
  4. 周囲の自然に存在する音に耳を傾け、 そこに存在する音楽様式を意識するよう心がけよ。
  5. より多くの楽曲に触れることによっても 未知の音楽様式を手に入れられるだろう。
  6. 作曲そのものにおける失敗や成功も音楽様式形成の一要因である。
  7. 良し悪しとは得てして好き嫌いのような主観による。 主観を軽んじてはいけない。 主観的な音楽様式を持てば主観的に良い作品を作曲できる可能性を持つ。
  8. 音楽様式は拡大のみに目を向けるのではなく、 縮小方向も考慮せよ。即ち制限された様式内での作曲である。

結尾

作曲というのは家を建てる作業に似ている。 まず家を見たことのない者に家を建てさせるのは不可能である。 家を見たことのあるものは、誰かに建て方を教わるなり、 見よう見まねであったり、或いは自身で工夫することで家を建てる。 最初の内は失敗も多いだろうが慣れるに従って完成度の高い家を建設できるだろう。

建設とは適当な材料を集めてこれを組み立てることである。 しかし材料というのは多種多様であって、 材料が異なれば様式も異なる。 木造建築と煉瓦建築が同じ様式であるはずもない。 煉瓦建築に釘の打ち方を習ってもおそらく無駄なことだろう。

音楽とは多種多様であって一つの理論で包括できたりはしないし、 理論は理論であって理論でしかない。 全く音楽理論を知らないのは音楽家にとって致命的であるが、 そのようなものは音楽すら認識できていないはずである。 従って何かしら音楽に興味を持つ者は既に何かしらの理論を得ているのである。 音楽理論は権威でもなければ強制でもない、 まして唯一であるはずがない。 私は音楽理論の正しい理解こそが音楽に対する正しい理解に繋がると信じている。

作曲家の皆さん、どうぞ存分にあなた自身を作曲して下さい。 そして全ての音楽を愛する人たちへ。 素晴らしい充実した音楽生活を!

平成13年3月 8日 脱稿 ©2001 Yoshinori SUDA.
平成17年7月30日 改稿 ©2005 Yoshinori SUDA.

参考文献

  1. 「新音楽辞典 楽語」, 音楽之友社, 1977
  2. 属啓成, 「作曲技法」, 音楽之友社, 1958
  3. エドモン・コステール, 「和声の変貌 音高組織の論理」, 音楽之友社, 1980, 小宮徳文 訳
  4. 内藤孝敏, 「三つの君が代 日本人の音と心の深層」, 中公文庫, 中央公論新社, 1999
  5. 金田一春彦, 「日本語教室」, ちくま学芸文庫, 筑摩書房, 1998
  6. S. K. ランガー, 「芸術とは何か」, 岩波新書(青版)641, 岩波書店, 1967, 池上保太 矢野萬里 訳

制作/創作田園地帯  2001/03/08初出
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